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第一章『守護騎士(ガーディアン)篇:プロローグ』

「貴方って、そんな格好だからどこかの教会の牧師さんなんだと思ってた」
 上擦った声が一定のリズムを刻むように大きく揺れているのは、女を組み敷いた黒ずくめの男が景気よく腰を振っているからだ。
「無欲な人間など、この世に存在するはずがないんですよ。聖職者だって、人の子です。残念ながら、僕は無神論者ですが」
 息ひとつ乱す事なく女を見つめた男は、自嘲気味に言いながら女の喉元へ唇を落とした。
「ひとつ、貴女にお教えしたいことがあります」
「なあに、ありがたいお説教ってこと? いよいよ本物の牧師さんみたいね」
 うっとりと、恍惚に震えながら。
 筋張った両腕を伸ばし、女は男の首筋に手首を絡める。
 今以上、層一層の至福を与えよと、懇願するかのように。
「貴女は――」
 こちらを見下ろす男がどんな表情(かお)をしているのかは、よく分からなかった。
 それは、汗を含んで重たくなった黄金(こがね)の髪が目元にぴたりと張り付き、ただでさえ起伏の少ない彼の顔色を殊更(ことさら)読み取りがたくしているせいだろう。
 しかし、蕩けるように甘く吟ずるその口元には、微かな笑みが浮かんでいるようだった。
「貴女は、目に見えるものだけを妄信することがどれほど危ういかということを、よくよくお分かりでないようですね。ああ、でも僕が真に言いたいのはそういうことではなく」

 刹那。
 それまで汗ひとつかかず平静を保っていた男の眉がほんの少し跳ね上げられ、彼は大きく体を強張らせた。ひどく耳障りな音を撒き散らし、ひたすらに暴れ続けていた簡素なベッドが、唐突におとなしくなる。
 ――なあに?
 何て、言ったの?
 甘い痺れが四肢のあちらこちらを(はし)るたび、男の声が遠のいていくような気配がしている。
 駄目よ、行かないで。
 煙霧のようにざらざらと濁った意識を、どうにか繋ぎとめておきたくて。
 遠ざかってゆく男の気配を、どうにか傍らに捕まえておきたくて。
 女は懸命に、男の背中へ爪を立てていた。
「ですから――神は確かに存在するけれど、彼らは人というちっぽけなものに、大した興味など持っていないんですよ。つまり彼らは、人が思っているようなありがたい存在では無いということです。そんなものを篤く信じて崇めることに、どれほどの意味があるとお思いですか」
 大真面目に耳を傾けてみれば――何ともまあ、馬鹿らしいことこの上ない。聖典を流し読みしただけの子供だって、幾分まだましな有神論を語るだろう。
 だが彼はつい先ほど、自らを無神論者であると語ったばかりだ。
 ならば男の語る“無関心の神”とは、一体何のことなのだろうか――?
「何だか、随分哲学的な話ね……壮大すぎて、私にはよく分からない……」
 しかしもはや女にとって、そんな絵空事じみた話などは、どうでもよくなりつつあった。
 至福の時間を味わい続けるための代償だと考えれば、少々の雑音など、もはやどうでも。
「哲学ではありません。今僕が話しているのは、全て本当のことですよ」
 そんな女の思いを見透かしたかのように、ほんの少し息を荒げた男の声音が、俄かに熱を失ってゆくのが分かった。
 濡れた金糸の隙間にのぞいた紫暗の瞳が、ただ(しず)かに無機質に、悦服に堕ちた女の(さも)しい姿を映し出している。
「そうでなくては――この僕が彼らから受けた仕打ちに、説明がつけられないでしょう?」
 神様から受けた、仕打ち――?
 深呼吸を終えた後で、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「ねえ、今どんな気分ですか? 少なくとも僕は貴女に興味がありません。気持ちの通わない男に抱かれるのは、どんな気分なんですか?」
 どうだっていいわよ、そんなの。
 それよりも、そんなことよりも――
 男に伝えたいことは、数限りなくあった。それなのに。
 思いとは裏腹に、どういうわけか、女の唇はぴくりとも動かなくなっている。
 否、異変が生じたのは口元ばかりではなかった。体のそこら中がまるで、鉛にでも変じてしまったかのように重たくなっている。
 なに、どういうこと?
 戦慄が、女の中を疾り抜けていた。
 どんなに慌てても、喉元から漏れ出てくるのは、規則正しい呼吸の音だけ。気付けば女は、微かな呻き声をあげる力すらも失っていた。
「――もう聞こえてないか」
 ひどく素っ気ない一言。
 男の口振りはまるで、こうなることを(はな)から理解していたかのようであった。
 違う。
 ちゃんと、聞こえているわ。
 ねえ――助けてよ!
 しかし、どれだけ強く念じたところで、痺れきった四肢が再び力を取り戻すことはない。
 そのうちに、小さく鼻を鳴らした男が、ゆっくりとベッドを離れていた。
「ああ、聞こえてますよ。遅いお目覚めですね」
 誰か、いる?
 ――まさか、そんなはずは。
 硬直しきった全身の中で唯一、甘美な呪縛から逃れた目の玉だけをぎょろつかせて、女は男の振り返った先を見つめていた。
「今、《扉》を開けて差し上げます。そこを出たくて仕方がないんでしょう。ちゃんと分かっていますよ」
 軽く目を遣っただけで、室内の全貌はあっさりと把握出来た。場末の連れ込み宿の一室など、せいぜい粗末なベッドひとつを放り込んでおけるだけの広さしかない。
 しかし男は、一室の内外を繋ぐたったひとつの出入口であるはずの、(すす)けた扉の前には立っていなかった。彼が静々と歩んでいったのは、扉のちょうど反対側にあたる、窓辺の方角だったのである。
 跳ね上げ式の木戸をひょいと持ち上げた男は、まるで長く焦がれに焦がれた待ち人と(まみ)えるかのような、晴れ晴れとした面持ちで外を覗き見ていた。
 やはり、誰かがそこにいる?
 だからと言って、連れ込み宿の窓をああも堂々と開けるなどとは、非常識もいいところなのでは――
 しかし、そんな女の懸念は、すぐさま些事と化していた。
 窓の向こうに人影と思しきものはない。けれどそこには確かに、異様なモノが在ったのだ。

 誰もいないそこに在るべきものは、じめついた暗い小路だけ。それだけのはずだったのに。
 何なの、あれ――
 窓の外には、夜陰の色と同じ漆黒に塗られた、古めかしい扉が姿を現していたのである。
 裏ぶれた路地の向こう。支えるものも何もない通りの真ん中に、一枚の扉板がぽつんと佇んでいる。あれを異様と言わずして、他に何と表現できるだろう。
 幻術でも見せられているのだろうか――女は自らの目を疑っていた。そういえば男は自分を、“白魔術士”だと称していたような気がする。
 もしもそうだとして、なぜ今頃になって?
 もはや今の自分は、まともに意識を保っていることさえ困難な状態だ。摩訶不思議な幻影を眺め楽しむ観衆など、ここには一人としていないというのに。
 朦朧とする意識を奮い立たせ、女は懸命に思いを巡らせる。
 そうするうちに、再び男が動きを見せた。
 高々と右腕を持ち上げ、男は頭の真横でぱちんと指先を弾いて鳴らす。
 刹那、黒塗りの扉がカチリと軽快な音を吐き出していた。
「おはようございます、《女神》」
 それが扉の開錠音であったことを悟るや否や、女は扉の奥から漏れ出した、途轍もなく巨大な気配に気が付いていた。
「――さあ、お食事の時間ですよ」
 重音とともに開け放たれた漆黒の扉板の向こうには、白夜のような美しい世界が広がっていた。
 溢れ出した光に抱かれた瞬間、女の意識はふつと(つい)える――。

 

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