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第一章『第五話:戦う理由・2』

 篝火のおどる街の一角に、巨大な()()()がぽっかりと浮かんでいた。
 不気味な(うろ)の入口には、歯列と思しき鋭利な尖形がびっしりと並んでいる。その向こうから、てらてらと悪趣味な光沢を放つ粘液を滴らせた、赤黒い肉塊が這い出してくる。じゅる、と濁った水音を撒き散らし、肉塊は穴ぐらの淵をなぞった。
「うわああっ! たすけ――」
 瞬間、騎士の悲鳴とともに奇怪な不協和音が轟く。
 小さな破裂音が幾重にも連なり形成された、たくさんのものが潰され、擦られ、千切られ、壊されてゆく音。
 一度、また一度と重なってゆくたび、ユダの全身を戦慄が疾り抜けていった。
 やがて、狂乱に染まった絶叫が、ぴたりと止んだ。
 つい先刻まで、傍らで言葉を交わしていた騎士の姿はもう、どこにもない。
 何故なら彼は今しがた、穴ぐらの主によって、あの(くら)い洞の奥へ引きずり込まれてしまったから。
 ――あの真っ暗闇は、あいつの“口の中”なんだ。
 耐え難い戦慄と格闘しながら、ユダははっきりと理解していた。

 そうして、ごくりと何かを呑み下すような音が大仰に響いた後、おぞましい冥府の入口は唐突に消え失せていた。
 ――無音。
 脅威は、消えた?
 不気味な静けさが、ユダの胸に軽はずみな希望を生み出していた。しかしながら、現実はさほど甘いものではない。
「さ、サイ様あっ!」
 後方で弾けた新たな悲鳴に、ユダは再び息を呑んでいた。追従していた騎士がまた一人、あの穴ぐらの向こうへ呑み込まれたのである。
「くっそ……このままじゃ、何もしねえうちに全滅しちまう!」
 背中合わせに剣を構えていたサイが、悔しげに舌を鳴らしていた。
 無力を噛み締める暇さえもないまま、凄惨な死の連鎖が間近で繰り返されてゆく。深い絶望が重々しくはびこる、まさに地獄のような光景だ。
「どういうことなの? 城壁の内側は安全なはずじゃ――異形が浸入出来ないって話はデタラメだったの?」
 遂にはがくがくと膝が笑い出している。ほんの僅かでも気負うことをやめれば、今にもその場にへたり込んでしまいそうだ。
「……どうやら、そうみたいだね」
 ところが、傍らに佇んでいたガラハッドは、良くも悪くもいつも通りだ。まるで他人事を語っているかのようなその口調に、思わずユダは苛立ちを覚えていた。
「それじゃあ結局、“東の楽園”の噂なんて、幻だったんじゃないか!」
 落ち着き払った横顔に、半ば八つ当たり気味でやりどころのない怒りを差し向けたユダであったが、それでも彼の反応は、拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。
「今更驚くようなことかな……噂は所詮、噂に過ぎないってことさ。“複数の他人が安全だと話していた”だけで、どうしてそれを信用に足る情報だと結論付けられるんだい?“絶対”と銘打つ話ほど、信用出来ないものはない。据えられた平穏に、ひとかけらの疑念も抱かず(すが)り付こうとするなんて、僕に言わせれば狂気の沙汰だよ」
「ガラハッド……」
「だけど、悲観することばかりでもない。事実、この街に仕掛けられた異形の忌避効果は、ほぼ完璧だ。この大陸内で一番安全な場所であることには、違いないよ」
 こちらを勇気付けるつもりでいるのか、はたまた、軽率な希望的観測を咎め立てしようとしているのか。果たして彼の真意はどちらなのだろう――そう考え始めてすぐ、ユダは「おそらくそのどちらでもない」という結論に辿り着いていた。
 彼の口から語られる言葉は、鉄壁の論拠と計算に基づいた、紛れも無い“事実”のみである。はじき出されたその答えに夢や希望を見出したいのだとすれば、それは受け手である自らがとことんポジティブでいるしかない。
 こんな状況で前向きに構えてるなんて、それこそ無茶だけど――
「その通りだぜ、ガラハッド。いつ異形どもに食い殺されたっておかしくねぇ外界と比べりゃ、ここは天国みたいなもんさ」
 そんな折、すっかり黙り込んでいたユダのすぐ側で、もう一つの声が響いていた。今しがたまで自分と同じに、成すすべなく立ち尽くしていたサイである。冷静な相手と話すことで幾分緊張が和らいだのか、彼の声調子は随分と落ち着いていた。
「けどまあ、残念ながらたまにこういう例外もあってな。強力な異形の中には、稀にこうして防御網をすり抜けて来やがる連中も居んのさ」
「そ、そんな……」
 またしてもこの命は、風前の灯も同然となってしまった。圧倒的強者から叩き付けられる不条理な力関係に、一介の弱者に過ぎない自分が果たして、立ち向かうことなど出来るのか――
 ユダの中で、言い知れぬ強い恐怖心と、それをどうにか封じ込めてしまおうとする抗いの心とが拮抗していた。
 死の足音は、着実に迫っている。やがて訪れるであろう理不尽な終焉を、自然の摂理だ弱肉強食だなどと、甘んじて受け入れるなどまっぴらご免だ。ただただ怯えながら“その時”を待つなんて、冗談じゃない――!
 考えろ。
 傍らの相棒は今も、考えることをやめてはいない。どれほど追い詰められようと、意識が途切れる最期の瞬間まで、きっと彼は考えることをやめようとはしないだろう。そのまた一方で、不敵に微笑み続けるもう一人の戦友も。
 絶望に潰されることなく、破滅に抗い続ける人の眼の、なんと美しいことか――
 諦めるな、考えろ。
 震える体を抱き締めながら、ユダは強く歯を食い縛り、闇の向こうへ視線を走らせた。
 その時再び、犠牲者の惨たらしい断末魔が轟いていた。涙の滲む目元に力を込め、ユダは逃げ出したくなる衝動と、真っ向から戦っていた。
「《犬鬼(ケルベロス)》は……表皮に覆われた部分を透明化する特質を持ってるんだったな。だから、捕食のために開口した瞬間だけ、口の中の様子が見える」
 取り乱さずに居ることで精一杯のユダに対し、相棒はやはりどこまでも冷静だ。懐の情報を淡々と繋ぎ合わせながら、彼は尚も観察と洞察を続けている。
「それなら――!」
 天に向かってまっすぐ突き出された彼の右手の平から、真っ白な眩しい光が漏れていた。そうして生み出された拳ほどの大きさの光球は、すぐにガラハッドの手を離れ、街の篝火よりも数段明るい光を放ちながら、ふわふわと頭上にうずくまる。
「やっぱり、見えないか――強い光で照らせば、“影”くらい出来るんじゃないかと期待したんだけど」
 光を頼りに目を走らせてはみたものの、異形の姿は文字通り、影も形もないままだ。
「姿の見えない敵なんて、どう戦えばいいんだ……」
 抜き放った剣を向ける方向すら定められず、ユダはぎゅっと唇を噛んでいた。
「でも奴は目に見えないだけで、肉体が存在しないわけじゃない。どうにかして()()を付けられさえすれば、位置を把握することは可能なはずなんだけど」
「目印――?」
 するとその時、ニヤリと口端を持ち上げたサイが唐突に剣の構えを解き、軽快に口笛を吹き鳴らしていた。
「なるほどな。いいヒントだ、ガラハッド。ひとつうまい作戦を思い付いたぜ」
 瞬間、風がぴたりと動きを止める。
 小さく“詠唱”の言葉を呟きながら、サイはゆっくりと両目を伏せていた。
「サイさん……何をするつもりなの?」
《犬鬼》のものだろうか――静まり返った路地には、獣の唸り声のような音が微かに響いている。
 問いかける間に短く詠唱を締結させたサイの周囲には、大きなエネルギーが収束し始めていた。
 その身に感じるだけで、皮下をめぐる血潮がみるみる沸き立ってゆくような――極端なほど“正”に傾倒したエネルギー。まさしくそれは、彼の得意とする“炎の魔術”に違いなかった。
「単純なことさ。一発勝負に出ようとすんなら、多少のリスクには目を瞑るしかねえ」
「仕方ない」と半ば観念したかのように、口元から苦笑を零したサイが、くしゃりと乱暴な手つきで前髪を掻き上げた。
 剥き出しの肌が、ひりひりと痛みを放っている。彼の背後には、今にも燃え出しそうなほどの熱が渦巻いていた。
「リスクって、まさか――」
 刹那。
 ユダがサイの意図に辿り着くよりも数瞬早いタイミングで、再びあの“恐怖の空間”が口を開けていた。今度は、これまでのどの位置よりも近い――
「サイさんっ!」
 ユダが叫びをあげ振り返ったのとほぼ同時に、剣を握ったままのサイの右手が昏い穴の中へ飲み込まれていた。全身を鋼鉄の鎧で覆っていた騎士たちとは違い、サイの腕は、前腕の表面を覆う籠手(ヴァンブレイス)を除けば、ほぼ剥き出しの状態だ。けれど、闇の顎門(あぎと)に喰らい付かれたサイは、苦痛に顔を歪めながらも、抗うどころかしたり顔すら浮かべ、声高らかに叫んでいた。
『炎よ!』
 その瞬間。
 閉じかけた穴ぐらの淵から、激しく炎が舞い上がっていた。同時に、けたたましい獣の咆哮が脳天を貫く。
 くらくらと揺れる意識をどうにか奮い立たせようと、ユダは懸命にかぶりを振っていた。
 気が付くと、炎に包まれた四つ足の生き物が、サイの足元でのた打ち回っている。斯くしてユダたちはようやっと、討つべき敵の、真の姿かたちを知ったのだった。
「へへっ――点火完了、だな。魔術の炎は、地面を転がり回ったくらいじゃそう簡単には消えねえぜ? これでお前の姿は、四方八方から丸見えってわけだ。ざまあ見やがれ!」
 バックステップを踏んでその場から遠ざかったサイは、血まみれの腕を押さえてがくりと膝をついた。
「良かった――腕を食い千切られたんじゃないかと思った!」
 仮初めのものとはいえ、ユダは唐突に訪れた好機の瞬間に安堵し、大きく胸を撫で下ろしていた。
 唯一はっきりと見えていた、あの恐ろしい“口元”から思い描いていた異形の像は、まさに“冥府の番犬(ケルベロス)”の名を冠するに相応しい、並外れて巨大な魔獣の姿であったのだが――いざ蓋を開けてみれば、その実寸は拍子抜けするくらいに矮小だ。紅蓮を纏う《犬鬼》のシルエットは、せいぜい野生の狼よりもまだ小振りな程度であった。
 それにしても、あの小さな頭のどこに、人間一人を丸呑みにするほどの大口が付いているというのか――形貌を把握することで、余計に分からなくなってしまったこともある。異形とはつくづく、奇妙な生き物である。

「サイさん、しっかりして!」
 最悪の事態は免れたが、何にせよサイは相当な深手を負ったはずである。彼にしてみればおそらく、腕の良い癒し手(ガラハッド)の存在を見越した上で、咄嗟の“賭け”に出たつもりだったのだろうが――
「なんて無茶を……他にもっと確実で安全なやり方があったはずでしょう!」
「チンタラ考えてる暇なんてなかったろ。いいからさっさと治療してくれよ」
「全く、貴方という人は――!」
 一時は獣の発した金切り声に面食らっていたものの、すぐさま我に返ったガラハッドが、ぶつくさと不満をぶちまけながら、サイのもとへと歩み寄っていた。
「ん……?」
 しかし、好機を迎えたかのように見えたその状況は、脆くも覆されることとなる。
 自力の鎮火を早々に諦めてしまったのだろうか。苦痛を露わにのた打ち回っていた獣が、唐突にのそりと身を起こしたのだ。再び四本の脚を地に付けた《犬鬼》は、口元と思しきところからボタボタと涎のような液体を垂らし、憤怒に満ちた鋭い唸り声をあげていた。
「いけない……サイさん、離れてください!」
 刹那、地鳴りのように凄まじい咆哮をあげた獣が、うずくまるサイに向かって、目にも留まらぬ速さで跳びかかっていた。
 いち早く危殆を察したガラハッドが、救出に向かおうと走り出す。しかし、怒りに我を忘れた獣の疾駆には、更々追い付きはしなかったのである。
 まずい、このままでは――!
 視界が暗転する。失意のあまり、思わず両目を瞑ってしまったのだ。最悪の選択であることはわかっていたのに、ユダはどうしてもその衝動に抗う事が出来なかった。

 ――その瞬間のことだ。
「君たち、そこを動くな!」
 虫の羽音を何倍にも尖らせ、研ぎ澄ませたかのような、鋭い音が飛び込んでくるのを感じた。
 何かが、近付いてくる――?
 目を閉じる前の光景からは、想像だにしない闖入者(ちんにゅうしゃ)である。恐怖の垣根を飛び越えて顔を出した好奇心が、ユダの瞼をこじ開けていた。
 獣の悲鳴が短く響く。その瞬間、火だるまになった怪物の頭部を、銀色に輝く幾筋もの閃光が貫いてゆく様が見えた。
「誰、だ――?」
《犬鬼》は、走り込んだ勢いのまま、サイの真横を掠めるように、激しく地面を横転してゆく。無防備に下腹を晒け出し、ばたばたともがき苦しむその姿からは、相当なダメージを負ったであろうことが伺えた。
 今度こそ、サイの傍らにガラハッドが辿り着くのを確認してから、ユダは閃光の飛来してきた方向を追いかけていた。
「サイ、無事か!」
 そこに立っていたのは、白塗りの長弓を構え、異国のものと思われる風変わりな装束に身を包んだ、白銀の髪の男であった。突然の参戦者に気を取られたユダは、男のすぐ後ろから走り込んできたもう一つの人影に、気付くのが数瞬遅れていた。
「お前ら――遅えよ」
 驚愕に染まった表情を一変させ、サイが柔らかく笑みを零す。
 刹那、つむじ風のごとき勢いで駆け込んできた“もう一人”が、巨大な剣を水平に振り抜き、獣の胴体を真一文字に薙ぎ払っていた。
 ところが、やはり一筋縄ではいかない。突然の強襲に翻弄されながらも、獣は驚異的な反射を見せつけていた。猫のようにしなやかな動きで後方に翻り、寸でのところでその一閃を回避してしまったのである。
 しかしながら、剣圧とともに放たれた凄まじい闘気は、怒り狂った獣の威勢を削ぎ落とすには、効果覿面であったらしい。《犬鬼》はまるで、自らを蝕む炎の存在など忘れてしまったかのように突然おとなしくなり、じりじりと後退(あとずさ)りながら、こちらの出方を伺い始めた。
「トランシールズ守護騎士団、第三部隊長カイル。これより加勢する」
 純白のマントがはたはたと風に躍る。
 重量級の得物を軽々と肩に担ぎ上げ、二人目の参戦者がユダの眼前に悠然と影を落としていた。
 小柄な人間一人程度ならば、易々とその刃の陰に隠せてしまえそうなほどの、並外れて長大な剣を片手に携え、隈なく全身を覆い尽くす重厚な甲冑を身にまとうその姿は、まさに堅牢な城壁そのもののようである。
 しかしユダが最も意識を奪われたのは、その剛毅な(こしら)えなどではなかった。
 まさか、この“声”――?
 最初の一言は、抑揚の無い低音だった。その声を耳にするまで、ユダはその細面の騎士が、自分と同じ“女”だとばかり思っていたのだ。
 白磁のように色素の薄い、髪と肌。すっきり整った鼻梁と、長い睫毛の奥に(はま)ったアクアマリンの瞳。彼を構築するひとつひとつのパーツは、兎にも角にも優雅である。その顔かたちはまるで、お伽話の世界から抜け出した貴人のようだ。そんな美しい姿を、(いか)めしい白銀の重鎧(フルプレート)に包んだ“カイル”と名乗る守護騎士は、吹き付ける風に長い金糸をなびかせ、再び大剣を構え直した。
「同じく守護騎士団、第二部隊長レヴィン! 助太刀するぞ!」
 続けざま、奥から走り寄って来た銀髪の男が、手の中の弓を背面のベルトへ器用に装着し、懐から細長い護符のようなものを取り出した。
 おそらく先ほど、銀色の閃光で《犬鬼》を射抜いてみせたのは、この男だ。
 しかしながら、彼の持つ武器は真っ白な長弓ひとつだけで、本来一揃えであるはずの矢をどこにも携帯していないように見える。
 他に目立つ武器を手にしていないことから考えても、おそらく彼は魔術士だろう。もしかすると、てっきり銀色の矢だと思い込んでいたあの閃光は、魔術によって生み出された“代用品”だったのかもしれない。
「お前らホントに遅えよ。おかげで俺の大事な片腕が、あいつの餌にされちまうとこだったじゃねえか」
「すまない、これでも異常を感じてからすぐに駆け付けたつもりだったんだが……巡回の騎士たちにも犠牲者を出してしまったな。不甲斐ない成果だ」
 サイの発言は冗談半分のノリのように思われたが、傍らに駆け付けてきたレヴィンという男に、それが通じた様子はなかった。
「おいカイル、聞いてんのかよ。相変わらず愛想のねえ奴だな、お前は」
 ところが、素直に陳謝するレヴィンとは対照的に、もう一人の助っ人――重騎士カイルは、サイの方を気にかけようとさえしていない。彼はただ黙したまま、じっと異形を睨み据えていた。
「――気が散る。話しかけるな」
 とても仲間に向けたものとは思えないほど殺伐としたその切り返しに、ユダはしばし緊迫した状況であることも忘れ、呆気に取られていた。
 しかし、すぐさまガラハッドに小さく名を呼ばれ、我に返ったユダは素早くそこへ走り寄る。
「サイさん、大丈夫?」
 顔中を冷汗でびっしょり濡らしたサイは、いかにも精一杯といった様子で、苦悶に満ちた笑みをこちらへ向けてくる。
 至近距離で直面したサイの怪我は、想像していたよりもずっと深手のように思われた。ぼたぼたと地面に滴り落ちる血の量を見れば、迅速な治療を要することは、もはや誰の目にも明らかだ。
「ガラハッド、早くサイさんを治してあげて!」
「言われなくてもそのつもりだ」
 深く頷いたガラハッドは、ためらうことなくサイの血に染まった手を取り、治癒を施し始めていた。
「なるほど、君になら治療を一任しても良さそうだ。サイ、この二人は?」
 張り詰めた声調子をすぐさま和らげたレヴィンは、おそらく一目でガラハッドの治療者としての力量を見抜いた。瑞々しい鮮緑色と、神秘的な金色――左右で異なる色合いを宿した切れ長の瞳を安堵に緩め、彼は静かにガラハッドを見下ろしていた。
「ああ、俺が今口説き落とそうとしてる“候補者”だよ。女がユダで、男がガラハッド。一度に二人だぜ? つくづく俺って奴は、甲斐甲斐しいよなあ」
 どこからでも褒めてくれと言わんばかりに、得意満面で鼻の下を擦ったサイだったが、苛立ちに顔をしかめたガラハッドにすぐさま「動くな」と腕を引っ張られ、小さく呻き声をあげる。
「そうか。では怪我をさせるわけにはいかないな。ユダ、君はここでサイとガラハッドを見ていてくれないか。《犬鬼》は俺たち二人で引き受ける」
「えっ? で、でも――」
「お前たちもひとまず下がれ! 民衆の保護を最優先しろ!」
「了解致しました!」
「レヴィン様、カイル様! あとはよろしくお願いします!」
 レヴィンの号令ひとつで、動揺しきっていた巡回の騎士たちの様子が一変するのがわかった。皆がみな彼の指示通り、僅かほどの迷いもなくこの場を二人に任せ、早々に引き下がろうとし始めている。
「あの、いいんですか? できるだけ大勢でやった方が――」
 電光のようなその流れについてゆけず、ユダは一人おろおろとしながら、手際良く退散してゆく騎士たちの後ろ姿を呆然と眺めていた。
「お前は前に出るな。近くをうろつかれると私が剣を振るえない」
 ちらりとこちらを一瞥したカイルが、相も変わらず温度のこもらない口調でぼそりと言い放っていた。確かに、あれほど大きな得物を側で振り回されれば、巻き添えを喰らって怪我をしかねないような気はするが――
「ええと……わかりました」
 言いたいことは多々あったが、カイルの無言の圧力に押し負けたユダは、あっさりと白旗を揚げていた。すると、その引き際を労おうとするかのように、すかさずレヴィンがユダの肩を叩いてくる。
「君もサイの奴に声を掛けられたからには、異形に対抗できる力を持った人間なのだろうが――それは守護騎士である我々も同じだ。だから今は、黙って見守っていてくれ。大丈夫だ、この先は一人の犠牲者も出さないと約束する」
 それは、大きな覚悟と信念に満ち満ちた、力強い声音であった。
 ――ああ、この人も。あの時の彼と、同じ目をしている。
 たちまちユダの胸には、つい先ほど酒場でサイと言葉を交わしていた時のような、熱い感情が沸々と湧き起こっていた。

 先駆したカイルを追い掛けるように、再び《犬鬼》へ鋭い視線を投げたレヴィンは、微動だにせず敵を見据えていた相棒の後ろへ、足早に駆け寄っていた。
 喉元から低く唸りをあげ続ける獣は、内なる怒りを更に滾らせ、こちらが隙を見せる瞬間を待ち構えているかのようであった。
 魔剣士の業によって生み出されたものとは言っても、やはり炎熱そのものは、《隷鬼(スレイヴ)》と対峙した時と同様、異形の体に大きな影響を及ぼすことはないようだ。サイの灯した炎は、またしても随分と早い勢いで鎮火の兆しを見せている。一瞬で蹴りをつけなければ、獣は再び闇へと溶け、たちまち劣勢が訪れることだろう。

「行くぞ、カイル!」
「――承知した」
 カイルの短い返答を皮切りに、レヴィンが手の中の護符を空へ向かって放り投げる。まるで命を吹き込まれたかのように、風の流れに逆らいながら《犬鬼》の真上へと突き進んだ護符は、瞬く間に金色(こんじき)の炎に包まれ、燃え上がっていた。
 次の瞬間、万全に身構えていた《犬鬼》の頭上へ、護符から生まれた炎と同じ黄金色(こがねいろ)の雨が、滝のように降り注ぐ――!

 

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