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短編『君がくれた記念日』※読了推奨:本編第三話まで

 何でもない日の夜のこと。
 底を突きかけていた路銀を調達するため、大陸で唯一“審判”の災厄から逃れた聖域――王都トランシールズを目指していた僕らは、宵闇の荒野で眠りにつこうとしていた。
 近頃、ますます夜の闇が濃くなってきているような気がする。
 空を覆う瘴気が日に日に濃度を増している影響からか、最近は真昼間だろうと、満月の夜であろうと、光の射さない日がとても多くなってきた。
 そんな毎日が続く中でも、風の強い日に限っては、空模様がはっきりと分かることもある。時折肌寒ささえ感じるほど風の強かった昨晩は、幾日か振りに大きな月が見えていて、いつになく明るかった。
 頃合いで言えば、今日も空にはほぼ満月に近い大きさの月が出ているはずなんだけど――
 枯れた大地に広がっているのは、見渡す限りの闇色。それはまさに新月の夜顔負けの暗さで、目を閉じていようと開けていようと、視界の殆どが変わり映えしないほどだった。
 その証拠に、手を伸ばせばすぐ届く位置にあるはずの相棒の顔は、闇に塗り込められてすっかり見えなくなってしまっている。
 確か僕は今、相棒の膝に頭をのせて、空を眺めながら眠りにつこうとしていたはず。
 けれど、星ひとつ出ていない空は、大地と変わらないほどの深い漆黒に覆われている。
 そんな闇空を眺め続けていると、天も地も無い空間をふわふわと漂っているような錯覚に陥ってしまう。そして、奇妙な錯覚はいつも、僕の心に言い知れない不安の種を撒き散らそうとする。
 そうなってしまったら最後――僅かな明かりを頼りに僕が見ていた世界は、夜が明けて、明日の朝目が覚めたときにも、変わらずそこに在ってくれるのだろうかと、途方もない妄想に取り憑かれ始めるのだ。
 眠ってしまえ。
 夢の中に落ちさえすれば、そんな不安に怯えることもなくなる。
 けれども、そう強く念じようとする度に、僕の意識はまどろみに落ちていくどころか、徐々に冴えをみせていこうとする。
 このままでは、まずい――
「眠れないのかい、ユダ」
 刹那、穏やかな声とともに、頭上から白い輝きが降り注いでくるのが分かった。
 瞼の奥に射し込んでくるような、強すぎる光の刺激に耐え切れず、僕は思わずぎゅっと瞳を閉じる。
 しばらく経って、ようやっと薄目を開けられるほどに慣れてくると、最初は目のくらむほど眩しかったその光が、蝋燭の炎程度しかない、とても小さく淡いものだったことに気が付いていた。
 握り拳よりも一回り小さいくらいのサイズの光球が、闇に沈んだ荒野を薄明るく照らしている。
 魔術の光に照らし出された四囲は、暗闇に包まれる以前と何一つ変わらない世界だった。
「うん――何だか今日に限って、暗いことが妙に気になっちゃって」
 ほっと安堵の溜め息を漏らした僕は、優しげにこちらを見下ろす相棒のアメジストの瞳を、じっと見上げていた。
「確かに今日はいつにも増して暗いね。でも、これだけだだっ広いところで、明かりを付けたままでいるのは少し危ないから、君が寝付く頃を見計らって明かりを消すことにするよ。それまで何か、話でもしようか」
 そう言ってガラハッドは、思案に暮れるように闇色の天蓋を見上げていた。
 彼が、僕よりも早く眠ることがないのは知っていた。眠れない夜、彼はこうしていつも、僕の話し相手になってくれる。
 でも――
 こういうときに彼が持ち掛けてくる話というのは、旅の目的地の話か、魔術の話と相場が決まっている。そして、そのどれもこれもが、僕にとっては到底理解しきれないほど小難しい話ばかりなのだ。眠気を誘う話だという点では有り難いのかもしれないけれど、たまには別の話だってしたくなる。
「ユダ、トランシールズへ着いた後のことだけどね――」
 ほら、始まった。
 君が何事も綿密に計画を練った上で行動したがる性格なのは百も承知だよ。でも僕は、旅の目的なんてその場その場で決めればいいと思ってる。到着した目的地が、必ずしも君の言ってることを忠実に実行できる状態じゃないかもしれないし、もしもそうだったとしたら、また小難しい話を挟みながら作戦を立てなくちゃならない。何より、それほど急ぐ旅でもないじゃないか。
 このままでは、また今日もガラハッドの難しい話で一日が締め括られることになってしまう。
 こうなったら、無理矢理にでも僕が話を持ち掛けてやることにしよう。話のきっかけさえ作ってしまえば、後のことはきっと、どうとでもなるに違いない。
 なるべくうんざり顔を表に出すことがないようにと気を遣いながらも、僕は彼の次の言葉をわざと掻き消すようなタイミングで、適当に思いついた台詞を投げ掛けてみることにしていた。
「ねえ、ガラハッド。ガラハッドって、自分の誕生日がいつなのか知ってる?」
「誕生日?」
 突然の切り口に、ガラハッドはいかにも怪訝そうに目元を歪めてこちらを見下ろしていた。
 きっと、“いきなり何を言い出すんだ”とでも思っているのだろう――そんなの、僕だって同じだ。
 彼が個人的なことを極端に話したがらないのは理解しているけれど、一度口に出してしまった言葉を引っ込めることなんて出来ない。
 幸いにも、どうしてこの話題を真っ先に思い付いたのか、僕自身にはっきりと心当たりがあったことは救いだった。
 数日前の“心当たり”を頼りに、僕はゆっくりと、記憶の中の情景に思いを巡らせていた――
「あのね。こないだ立ち寄った集落でね、家族に誕生日を祝ってもらってる子供を見たんだ」
「うん」
 話の触りの部分を聞いただけで、彼は“ああ”と露骨に、全てを把握したと言わんばかりの表情を見せてくる。
 もしもここで、“聞かなくても分かる”と話をすっぱり寸断されてしまったとすると、元々話の種なんか殆ど持っていない僕には成す術もないところだけれど、よほどの与太話でもない限り、口を挟むことなく僕の話を一通り聞いてくれるのは、彼のいいところだと思う。
 首尾よくこのまま話を広げることも出来そうで、お咎めが来ないのをいい事に、僕はすっかり調子付いていた。
「家族だけじゃなくて、友達や近所の人まで集まってきて、みんなでその子の誕生日をお祝いしててね……何だか、羨ましいなって思って」
「何が?」
「何がって、何が?」
「それのどこが羨ましいのか、よく分からないんだけど」
 普段の彼の話し振りを聞いていれば大方予想は付くところだけれど、彼はいつだってこんな風に、周囲の話を甚だしいほど客観的に、冷静に受け止めていることが多い。
 疑問があればどんな些細なことでもとことん尋ねようとするし、賛同できないと思ったことに対しては、たとえ自分の味方の意見だろうと、きっぱりと否定しようとする。
 ときに揉め事の原因になったりすることもあるほど、極端な性格だとは思う。けれど、僕は変に隠し立てをしたり、心にもないお世辞を言うような人間よりはずっといいと思っていた。
 何よりも重要なことは、彼の話し振り云々ではなく、僕が今理屈を抜きに、こうして彼と真っ向から話が出来ているということだ。
 君は気が付いていないんだろうな――こうして君と話している時間が、僕にとってどれだけ楽しい時間なのかってこと。
 気が付くと僕は、終始怪訝な表情を崩さないガラハッドに向かって、夢中になって話し続けていた。
「どうして? 君は羨ましいと思わないの?」
 僕の気持ちとは裏腹に、彼が少しも楽しそうな顔をしてくれないのはいつものことだ。
 それでも僕はお構い無しに、ただただ彼が答えてくれるのを待っていた。
 いかにも興味のなさそうな顔をしながらも、君が僕の話を最後まで聞き通してくれるのは、たとえ少なからずとも、僕のことを知ろうとしてくれる気持ちがあるからだと、思っていていいよね?
「歳なんて、一年すれば誰だって一つずつ取るものなんだよ。特別なことじゃないんだから、羨ましがる必要なんかないと思うけど」
「僕が言ってるのは、そういうことじゃなくて」
 方向性が噛み合わないのも、いつものことだ。
 でも彼はきっと、いつも彼なりに僕の言葉をきちんと吟味した上で、真剣に答えを探してくれているに違いない。僕にとってはそれが、何にも代えがたいほど、嬉しいことだったんだ。
 けれど、大真面目な顔を貼り付けて、どこか的外れな答えを返してくる彼のことを、微笑ましく思う反面、どうにも可笑しくて大笑いしてしまいそうになることがある――今の僕は、まさにそんな状態だ。
 とうとう笑いを(こら)えきれなくなってしまった僕は、相棒を見上げることをやめ、喉元にまで上がってきていた笑いを押し込めようと、彼の膝に鼻先を押し付けながら顔を隠していた。
 ひとしきり笑いを押し込めたつもりになっていた僕は、再び見上げたガラハッドの表情が豹変していることに気が付き、俄かに動揺していた。
 冷静そのものだった彼の表情は、それまでの様子が跡形も無いほどの仏頂面に染まっている。
 そういえば、いくら笑い顔を隠したところで、体の奥から湧き出してくる震えまでを押し隠すことは難しかったのかもしれない。
 せめて体が触れ合っていない状態で話し始めるべきだったと、少しの後悔も感じながら、彼が表立って反論してこないのをいいことに、僕は気にせずさっさと話を進めてしまおうとしていた。
「あんな風に、誰か他の人から自分が生まれたことを祝ってもらえるのって、いいなあって思って――僕が自分の誕生日を覚えてたとしたら、君は祝ってくれたかな」
 僕が目一杯手を伸ばして触れたガラハッドの頬は、指先が触れた当初は硬く強張っていたものの、すぐに元の柔らかさを戻してくれていた。
「何を言い出すのかと思ったら……そんなことをいちいち気にしてたのか、君は」
「え?」
 再びこちらを見下ろしたガラハッドの瞳から、目が離せなくなる。
 それは、彼の零した相変わらずの淡白な物言いに捉われてしまったからという訳ではない。僕を見下ろす紫暗の双眸に、悲しみとも怒りともつかない、不思議な色が混じるのを感じたからだ。
「そんなの、別にいつだっていいじゃないか……さっきも言っただろ、歳なんて一年すれば誰でも一つずつ取るものなんだって。誰にでも誕生日があることは間違いないんだから、それがいつ来るかなんてどうでもいいって言ってるんだよ」
 彼はおそらく、僕に対して怒りをぶつけようとしているわけではない。言葉通りの淡白な現実を思い知らせてやろうとしているわけでもない。
 それとはもっと別の、言葉に出来ない何かもどかしい気持ちを伝えたがっているような――
 いつも冷静な彼が感情的になるのは、とても珍しいことだ。乱れる様を他人に見られることが、何より嫌いな性格であることも知っている。
 そんな彼が、ここまで感情を露わに伝えようとしていることって、何だろう。
 怒りでも悲しみでもないものだとしたら、それは――
「そんなに誕生日が羨ましいなら、今日が誕生日だってことにすればいいんだ。もしかしたら本当に今日が誕生日なのかもしれないし、たとえ半年前だったとしても、大して変わらないだろ」
「そう言われれば、そうかも」
「君が羨ましいと思ってるのは、誕生日じゃなくて、一年に一度の“記念日”じゃないの? 普通にすごしてれば、何でもないものとして過ぎていくはずの一日でも、“記念日”だってことにしておけば、周りは特別な日だと言って祝ってくれるからね」
「何だか、身も蓋もない言い方だね……」
「だって、そうじゃないか。いくら誕生日があったとしても、君の事を知ってるのは今のところ僕しかいないんだし……君の誕生日を祝うことが出来るのは、僕だけしか――」
 聞きながら、僕は苦々しく笑みを浮かべていた。
 僕の笑顔が苦々しいものになってしまったのは、やっぱりガラハッドのせいだ。
 何故って、尻すぼみになりながらも話し続けようとする彼の表情を見ていたら――それは普段の彼からすれば想像もつかないほど、滑稽なものに違いなかったから。
 (たかぶ)った思いをぶちまけた後のガラハッドは、話が終わらないうちに、自分で自分の発言がしっくりこなくなってきたようだった。
 それでも、話の方向性を途中で曲げるわけには行かないと意固地になっていたのか、台詞の後半に差し掛かるや否や、彼はひたすら決まり悪そうに語尾を曇らせ始め、からがらにそれを言い終えた途端、拗ねたようにそっぽを向いてしまったのだ。
「君は、僕の誕生日を祝ってくれるの? だったら僕、誕生日が欲しいな」
 そんな彼の様子に追い討ちをかけたい訳ではなかったけれど、滅多と出遭えないこの状況には、少なからず便乗しておかなければならないと思っていた――相棒のうろたえる姿を目の当たりにすることなんて、そうそうあるものではないと分かっていたから。
「え――うん、まあ」
 僕が乗り気になってくるなんて、思ってもみなかった?
 自分がこんなところで墓穴を掘るなんて、思ってもみなかった?
 今なら、向こうがどんなに理詰めでものを言ってきたところで、負ける気がしなかった。
 無理に感情を押し隠そうとすることをやめた僕は、余すところなく満面の笑みを浮かべて、ガラハッドを見上げていた。
「じゃあ僕、今日が誕生日だってことにするよ? 他の人に誕生日はいつだって聞かれたら、今日だって答えることにするよ?」
「別にいいんじゃないの。そうしたいなら、好きにすれば?」
 拗ねた顔を見せるのはしょっちゅうだけど、今日の拗ね顔は、いつもとは随分違っているみたいだ。
 普段、言葉のやり取りで引けを取ることの無い彼が、こんな顔を見せてくれるのはとても珍しい。
 幸運なことに、こういう時、彼が表情を誤魔化すための頼みの綱にしている鍔付き帽子は今、僕の手の中にある。絶対に返してなるものかと掌に力を込めた僕は、今日ばかりは彼が根をあげるまで、悪戯心のままに揚げ足を取り続けてやろうと決めていた。
「何だよ、その目は――」
「今日、僕の誕生日なんだよ」
 出来る限り瞬きを我慢して、笑い出しそうになるのを堪えながらガラハッドを見上げると、彼は露骨に目を泳がせて、僕から視線を外そうとしてくる。
 でも、どんなに瞳を逸らしたところで、膝の上という間近の位置を陣取っている僕の視線から逃げ切るのは難しかったみたいだ。
 呆気なく足掻くのをやめたガラハッドは、いかにも不服そうに目を据わらせると、意を決したように小さく息をつき、紫暗の瞳をゆっくりと動かして、再びこちらを見下ろしていた。
「た……誕生日、おめでとう」
 もう少し楽しそうに笑って言ってくれたら良かったのに――他にも思うことはたくさんあったけれど、大きく表情を崩すこと自体が珍しい彼には、これが精一杯の譲歩なのかもしれないと思った。 
「ありがとう、ガラハッド」
 心地よい重みが、胸の奥にしんと沈んでいくような感覚。
 お腹いっぱいの食事にありつけた日よりも、ぐっすりと眠りにつくことが出来た日よりも。
 今日という日が、今までのどんな日よりも特別に感じられたのは、君のくれたその短い一言が、僕の“幸せ”そのものだったからだね。
 これからも、その先も、もっともっと先も、たった今生まれたばかりの大切なこの日のことを、ずっと忘れないで居られますように。
 心の中でそう念じた途端、僕は跳ねるように体を起こすと、半ば前のめり気味になりながら、ガラハッドの法衣の裾を引いていた。
「そうだ……ガラハッド、今日って何月何日だった? 来年も祝ってもらわないといけないから、ちゃんと日付を覚えておかないと」
 さっきよりもずっと近くで見たガラハッドの顔色は、何だかいつもより随分血色がいいような――
 迷惑そうに溜め息をついたガラハッドは、何か言いかけて口を開こうとしたはずなのに、ちらりとこちらを一瞥しただけで、すぐにまた難しい顔を浮かべて黙り込んでしまっていた。
「知らない」
「ガラハッド?」
 ちょっと調子に乗りすぎたかな?
 思いがけない反撃に、僕は一瞬ドキリとさせられる。
 けれど、そっぽを向きながらも、しきりにチラチラと僕の方を気にしてくるガラハッドの様子を目の当たりにすると、そんな不安はすぐに何処かへ消え去ってしまっていた。
 こみ上げてくる安堵に思わず頬を緩ませると、彼はとうとう、わざとらしく首を捻じ曲げたまま、少しもこちらを振り返ってくれなくなってしまった。
「別にいいだろ、そんなの。明日だろうと明後日だろうと、忘れたらまた思いついた日を誕生日にすればいいよ。元々出鱈目なんだから、いつだろうと大して変わらないでしょ」
「何で? さっき“誕生日は一年に一回”って、君が言ったんだよ」
「うるさいな、そんなことで揚げ足を取らなくたっていいじゃないか!」
 揚げ足を取るのは君の常套手段なのに、という言葉はこの際だから飲み込んでおくことにする。
 今はとにかくもう、藻掻けば藻掻くほど深みへとはまっていく彼の慌て振りが面白くて、可笑しくて。
 でも、これ以上調子に乗ってしまったら、さすがの彼も口を聞いてくれなくなりそうだ。さっきまでは気のせいかもしれないと片付けてしまえた彼の顔色が、今や見る影も無いほど真っ赤に染まってしまっているのが見えたから。
「じゃあ、明日も誕生日だって言ったら、君はまた僕におめでとうって言ってくれるの?」
「それは、まあ――誕生日だから」
 無遠慮に相棒の膝へごろりと寝転がった僕は、わざと頭上を見上げないようにすぐさま寝返りをうつと、視界一杯に広がるだだっ広い荒野を見つめていた。
 そういえば、いつの間にか地平線が見えるようになっている――
 闇色の空の切れ間からは、まるで僕らの様子をこっそりと窺っていたかのように、白銀の月が顔を覗かせていた。
「明後日も、その次の日も言うかもしれないよ?」
「別に、言いたいなら言えばいいんじゃないの。その度に僕がおめでとうって言ってあげれば済むんでしょ」
 強張っていたガラハッドの膝から、急激に力が抜けていくのを感じる。上擦った声色が柔らかみを戻す瞬間の彼の姿を、この二つの目でしっかりと見られなかったことは、何故だか少し悔しいと思った。
「約束だよ、ガラハッド」
 その後、いくら待っても彼からの返事が返ってくることはなかった。
 けれど、僕が最後の言葉を零した後、包み込むように僕の頬に触れてきたその手の温もりが、全てを教えてくれたような気がしていた。
 僕は再び、月明かりの下の荒野へと瞳を向ける。
 枯れ果てた草木の一本ですら残っていない荒野で、地平線の彼方を見渡すことはとても容易い。
 月の膝元では、天にも届くほどの大きな建物のシルエットが、ゆらゆらと揺れている。おそらくあれが、僕らの旅の目的地――王都トランシールズなのだろう。
 たくさんの出逢いがあるかもしれない。
 見たこともないほどの、美しい景色があるかもしれない。
 心を打ち砕かれるような、悲しいことが起きるかもしれない。
 忘れられなくなるくらいの、怖い目にも遭うかもしれない。
 それでもきっと、君と一緒なら、どんなことだって“思い出”に変えられると思うんだ。
 湧き立つ胸の奥を(なだ)めすかそうと、大きく深く息をつく。
 まだ見ぬ新天地に想いを膨らませながら、僕は静かに目を閉じていた――

 

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